中国ロックと中国社会 / ファンキー末吉 特別寄稿
中国ロックの誕生
長い暗黒の時代であった文化大革命が1976年に終わりを告げ、1978年に鄧小平が「四つの近代化」を掲げ、中国の体制を市場経済へと移行していったために、中国社会にはこれまで聞くことが出来なかった多くの外国の文化が流れ込んでくることとなった。それまでの中国の音楽は毛沢東を讃える歌に代表されるような革命を推進する音楽しかなかったが、その外国から流れ込んでくる文化の中にビートルズに代表されるような西洋のロックミュージックがあったことが、後に中国にロックが生まれる大きな土壌を作ることとなる。
1986年5月9日に中国ロックの歴史が始まったと言われている。

崔健(ツイジェン)
北京工人体育館で連合国国際平和年を記念して第一届百名歌星演唱会(第一回100人歌手コンサート)と言うイベントが開かれ、そこに崔健と言う歌手が参加した。壊れたギターを抱え、ジーンズの両足の長さが揃っていないような小汚い格好で舞台に上がったひとりの若者に、観客は最初は何事かと思っていたが、彼が歌うオリジナル曲「一无所有(何も所有していない)」を聞いた瞬間に、その新しいリズム、歌詞、アプローチ、今までの中国にはなかったまるで新しい音楽に大きな感動を覚えた。中国ロック誕生の瞬間である。
崔健は1961年に朝鮮族の両親の間に生まれた。
父親はトランペット奏者、母親は朝鮮族舞踏団と言う音楽一家である。この時代のロックミュージシャンのほとんどが音楽関係に従事する家庭の子供であると言うのは、実は文化大革命の影響も少なからずあるであろう。自分自身が音楽でこの文化大革命の嵐を乗り切って来た両親が、子供の将来のために音楽を教えると言うのも当然の流れであろうからである。
例にもれず、彼も父親からトランペットを教わり、1978年頃から北京交響楽団のトランペット奏者として仕事を始め、1981年には北京歌舞団のトランペット奏者となる。鄧小平が推し進める経済開放政策の真っただ中である。文化大革命の頃にはあり得なかった海外からの留学生や旅行者との自由な交流の中で、彼らが持ち込んだカセットテープで初めて洋楽を聞いた彼は、それからギターを弾き始め、歌を歌い始めた。
そのような若者は中国でもたくさんいた。
1979年に萬马力王乐队(ワンマーリーワンユエドゥイ)と言うバンドが北京第二外国語学院の学生達により結成され、ビートルズや、ビージーズ、ポール・サイモンなどのコピーバンドとして活動を始めたのが北京最初のバンドだと言われている。

不倒翁乐队(ブーダオウォンユエドゥイ)
また、1980年10月22、23日には天津の天津第一工人文化宮で開催された“第一回中日友好音楽祭”にゴダイゴが出演、これが名実ともに中国で初めて行われたロックコンサートであり、このことが中国ロックに与えた影響も大きいと言える。
翌年8月にはアリスが北京の北京工人体育館で日中共同コンサート“ハンド・イン・ハンド北京”を開き、このことも中国ロックには大きな影響を与えており、1984年に結成された初めて電気楽器を使うバンド「不倒翁乐队(ブーダオウォンユエドゥイ)」は、アリスや谷村新司など日本の歌のカバーが中心だった。後にこの「不倒翁乐队」のメンバーは中国ロックをけん引してゆく大きな存在になってゆく。
また北京に在住している外国人が中国ロックに与えた影響は大きい。1983年末に結成された外国人バンド大陆乐队(ダールーユエドゥイ)のメンバーなどは、後に崔健と共に活動し、その音楽を一緒に形作ってゆくこととなる。
その当時はまだオリジナルのロックはまだ存在せず、中国に中国人による中国語の初めてのオリジナルを生みだした人間こそが崔健であり、そして彼が突出していた能力はその制作能力の高さであった。ロック、ジャズ、ファンク、ラップ、いろんな洋楽の要素に彼は中国民族音楽の要素を入れてその独自のスタイルを築いている。その音楽性は海外でも評価が高い。それは中国にロックが入って来た時の特殊な環境にも由来していると考えられる。
ロックとテレサ・テン

テレサ・テン
日本やアメリカではロックが長い歴史の中で徐々に発展していったが、中国では経済開放政策のおかげでロックもジャズもテレサ・テンもいっぺんに同時に入って来た。テレサ・テンなどは中国ロックに最も大きな影響を与えた歌手であるとも言えよう。後にロックミュージシャン達が集まって彼女の追悼アルバムを作ったりもしている。
ロックとテレサ・テンと言うふたつのまるで異なる音楽は、中国と言う特殊な環境の中で奇しくも似たような運命をたどってゆくこととなる。
1983年ごろ鄧小平は、経済開放政策の副産物として外からとめどもなく入って来る政府に悪影響のあるものを取り締まるべく「精神汚染批判キャンペーン」を始め、テレサ・テンの音楽は「靡靡之音(ミーミージーイン)」と呼ばれ、人民を退廃させる「ブルジョア的な思想や風俗に傾斜する退廃的な音楽」としてそのやり玉に挙がったのである。
テレサ・テンのテープを持っているだけで所属している单位(ダンウェイ)から給料を減らされたり、財産を没収されたりしてたと言うほど厳しい取り締まりであったと言うが、中国政府が期待しているほどその成果は上がらなかった。当時中国大陸で2億個とも言われるほど出回っていた彼女のカセットテープを根絶やしにすることは到底不可能で、「上有政策下有对策(シャンヨウジョンツァーシャーヨウドゥイツァー・上に政策あれば下に対策あり)」と言う言葉が示すように、人民は隠れて彼女の歌を聞き、口ずさみ、愛し続けた。
西北風ムーブメント

崔健(ツイジェン)
その数年後に生まれた中国ロックも後にこのような運命をたどるのであるが、その時点では中国政府はロックを「危険なもの」と言う意識を持っていない。崔健も「ちょっと変わったスタイルの音楽をやる流行歌手」と言った立場で、1987年頃から始まった「西北风(シーベイフォン)」と呼ばれる中国西北部、黄土高原地帯の民謡を現代風にアレンジしたスタイルの大流行に乗り、一无所有(Nothing To My Name)と言う曲もその代表曲のひとつとして中国全土に大流行してゆく。その大流行は1989年まで続き、その流れに乗って崔健は1988年1月、北京中山音楽堂で初めてのソロコンサートを開き、同年ソウルオリンピック前夜祭特別番組の世界中継のテレビの中で、一无所有を歌う。翌年2月、ファーストアルバムとなる「新长征路上的摇滚(シンチャンジョンルーシャンダヤオグン)」を発売し、3月には北京展覧館で“ソロコンサートを開き、これが中国で初めての大舞台でのソロロックコンサートとなる。
大流行となった西北风ムーブメントも中国流行歌の全てがそのようなスタイルになってしまい飽きられて終わってゆくのだが、そうして消えて行った多数の西北风スタイルの楽曲に反して、一无所有だけが違った運命を歩んでゆくことになる。その大きな原因となったのが1989年6月に起こった天安門事件である。
天安門事件と一无所有
天安門事件は民主化を求めて立ち上がった学生達を中国政府が武力で鎮圧したと言う解釈をされているが、いろんな方向で物を見ると必ずしもその一面だけの事件とも言い難い。別の方向で見ると、妥協点を放棄して最後まで居座った学生達を非難する声も聞こえて来たりもする。政治的思想もなく面白半分で参加している学生もいただろう。その学生達は、その時広場で彼らが愛唱していた一无所有と言う曲を反体制のメッセージソングとして歌っていたわけでもなく、また「俺達は何も所有してない」と言うメッセージを、必ずしも反共産党の意味合いとして歌っていたとも限らない。
しかし日本も含めた西側諸国のメディアは、こぞって崔健を「反体制の旗手」として報道した。一无所有はそれにより見事なまでに「自由を求める若者を代表するメッセージソング」にされてしまったのだ。
「ロックはメッセージ」と言うが、私はそれもロックのただの一面であると思っている。歌詞と言うものはその性格上多面性があり、聞き手にいろんなイメージを湧き起こさせるように作るものである。この歌詞に出てくる「何も所有してない男」が中国人民を表していて、その男に求愛されて「だってあなたは何も持ってないじゃない」とそれを相手にしない女は中国政府を表していると言うのは、とどのつまりにはその詞を「そのように解釈した」と言う聞き手の問題であり、果たして作者がどのような意図があってそれを作ったかと言うことは作者にしかわからないことだし、またそれを知ることは音楽を聴くと言うことに対して何の意味も持たない。
確かに彼の曲には西側諸国のメディアが喜びそうなメッセージが見え隠れする。
例えば一块红布(イークアイホンブー)と言う曲では
女が男に赤い布で目隠しをする。
「何が見える?」と聞かれて男は「幸福が見える」と答える。
とても気持ちがよく、自分がどこにいるのかもわからない。
女は尋ねる。「どこに行きたい?」。
男は答える。「あなたの行くところに」。
女は尋ねる。「何を考えてる?」。
男は答える。「あなたが主で私は従だ」と。
ここは荒野ではないと男は感じる。
例えそれが既に干からびてしまってても、自分にはそれを見ることが出来ないから。
男は渇きを覚える。女はその口を優しくふさぐ。
僕はもう歩けない。僕はもう涙も出ない。身体はすっかり干からびてしまったから。
でも僕はずーっとあなたに着いてゆく。だって一番苦しいのはあなた自身なのだから・・・。
この曲を演奏する時、彼はステージの上で真っ赤な目隠しをしてトランペットを吹く。赤とは共産党の色である。中国政府が彼を徹底的に弾圧するようになるのに時間はかからなかった。政府はロックと言うものを精神汚染音楽だと捉え、全てのロックミュージシャンはその演奏の場を失ってしまった。
中国ロックの黎明期

超载(チャオザイ)
この頃には既にいくつかのロックバンドが生まれていた。スラッシュメタルバンドの超载(チャオザイ)やプログレッシブメタルの唐朝(タンチャオ)、女性バンドの眼镜蛇(イエンジンシャー)、そして後にこの時代のバンドとしては商業的に一番成功することになる黑豹(ヘイバオ)などであるが、彼らの主な活動場所はPartyと呼ばれるアンダーグラウンドでのロックライブであった。全ての公演施設は国の持ち物であるし、正規の演奏には文化部の許可が必要なのであるから、彼らの活動は決して楽なものではなかった。

唐朝(タンチャオ)
しかしテレサ・テンの場合と同じように、この広い中国大陸に住む十億以上の人間の耳と口を塞ぐことはいくら一党独裁の共産党でも不可能なことである。ロックは一大ムーブメントとなり、彼らのカセットテープは海賊版も含め(と言うよりそのほとんどは海賊版なのだが)何百万本、何千万本、ひょっとしたらその数は億をゆうに超えたであろう。
中でも台湾のレコード会社、ロックレコードが製作、販売した黑豹のファーストアルバムは、正規版だけで150万枚の売り上げを記録しており、ロックアルバムとしてのその記録はその後も破られてはいない。

黑豹(ヘイバオ)
ロックと言う音楽はメッセージやムーブメントだけでなく「金を稼げる商品」として中国政府の認識を変えていった。
音楽の役割の変化
文化大革命の頃は音楽と言うものはひとつの「娯楽」ではなく、革命を前進させてゆくひとつの手段であった。戦時中、日本の音楽が戦意を高揚させるために軍部に利用されたのと似ている。
文化大革命は「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しようという運動」と言われているが、その実は国民全てを巻き込んだ権力闘争であった。結果毛沢東の個人崇拝が徹底し、人民たちは毛沢東の写真やその文字を軽々しく扱っただけで命を落とすことも珍しくなかった。
この時代、革命を前進させる音楽とは即ち毛沢東を讃える歌と言うことである。「太阳最红毛主席最亲(タイヤンズイホンマオジューシーズイチン・太陽は最も赤く毛主席は最も親しい)」、「毛主席的话儿记心上(マオジューシーダホアアルジーシンシャン・毛主席のお話は心に記され)」などがこの時代の音楽の種類としては一番代表的なものであった。
それでも音楽には「娯楽」の一面は必ずあるわけだから、国民達はこれらの革命歌を愛唱した。いわゆる時代を反映するヒット曲と言えるであろう。国民とはその国がどんなであろうが、それがどんな時代であろうがいつも音楽に心の安らぎを求めるものである。

1989(イージョウバージョウ)
ところがそんな時代が終わり、改革開放がますます推し進められてゆく1991年、「红太阳(ホンタイヤン・赤い太陽)」と言う、革命歌をロック的なリズムでメドレーにしたカセットテープが発売さた。これは爆発的なヒットとなり、正規版だけで600万本を超え、翌年にはその続編も発売されている。
初めて電気楽器を使うバンドとして登場した「不倒翁乐队」のメンバーであり、後に「1989」と言うロックバンドのメンバーにもなった孙国庆(スングオチン)が数曲歌っていることも興味深い事実であるし、何よりも文化大革命の時代には人民が軽々しく扱うことが出来なかった毛沢東と言う「神様」を、この時代には自由に商売として扱うことが出来るようになったと言うことが実に大きな変化であると言えよう。
毛沢東ブームは一大ムーブメントとなった。毛沢東のブロマイドが街角で売られ、交通安全のお守りになると言うことでタクシーや乗用車のルームミラーにそれを吊り下げて車を運転することが全中国で大流行した。文化大革命の頃なら死罪ものの行為である。
中国ロックと毛沢東
文化大革命で中国を大混乱に陥れた張本人として、または中国と言う大国を支配した独裁者としてその功績を悪く評価する人間は西側諸国には少なくない。また「ロック=反体制」と言うならば、共産党体制の代名詞のような毛沢東とロックとは対立してしかるべきだと思うのが自然であるが、こと中国のロッカー達にとって毛沢東と言うのは必ずしもそのような簡単な考えで片付けられるものではない。
崔健は「新长征路上的摇滚(シンチャンジョンルーシャンダヤオグン・新しい長征の道のりのロック)」と言う曲を作り、1989年に同名のファーストアルバムをリリースしている。毛沢東の長征をロックになぞらえたこの曲は、「毛沢東を茶化している」と中国政府の逆鱗に触れたが、果たして崔健は中国政府が言うように本当に毛沢東を茶化してこの曲を作ったのであろうか。
歴史の評価と言うものは必ずしも一面だけが全てではない。毛沢東は文化大革命と言う歴史的な大失策をやらかした張本人であることは事実だが、中国を開放した英雄であることも大きな事実である。崔健が毛沢東を敬愛し、その長征の道のりを自分のこれから行おうとするロックに道のりと同じものだと考え、同名のツアータイトルをつけて毛沢東と同じように全中国をツアーしたと考えても不思議ではない。
西側諸国の中国ロックへの理解度
私と中国ロッカー達の決して少なくない交流の中で感じることは、西側社会がイメージする「ロック=反体制」、「ロックvs共産党」と言うような簡単な図式で彼らの考えを推し量ることは出来ないと言うことである。
彼らは中国に住んでいる。日本人のように容易に外国に出ることも出来ない。また日本人のように安易に「アメリカは正しい」と信じ込むことも出来ない。
また、天安門事件は彼らの国のことであって、外国人がそれに安易に介入出来る事柄ではない。私たちが想像しているよりも彼らはもっとこの事件を深く、そして同時にある意味では軽く考えている。それは日本の安保闘争で熱く戦った戦士たちが今では体制側で仕事をしているのとも似ている。
彼らはここで暮らし、ここの音楽を作り、そしてここで生きてゆく。彼らの「この時代の音楽」は彼ら自身が作り上げてゆくもので、決して外国人が押し付けたり煽ったり出来るものでもない。中国のロックを本当に理解しようとするならば、体制や文化の違う国で暮らしながらその物差しで物を測ったりしてはいけない。彼らと一緒に暮らしてみなければ永遠に見ることが出来ないものがそこにあるのである。
中国ロックの商業化
改革開放の旗頭として挙げられた鄧小平の先富論とは、「豊かになれる者から豊かになれ。そして落伍者を助けよ」と言うもので、これにより中国は資本主義市場経済を導入した中国独特の社会主義を歩むこととなる。「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」とは彼の好んで使った「白猫黒猫論」と言う言葉である。
その反面、中国政府は常にロックを「精神汚染音楽」として敵対視して来た。これは社会主義がイデオロギーを最優先することと、資本主義市場経済が経済を最優先することとの大きな矛盾である。「鼠を捕るロック猫は良い猫なのか悪い猫なのか」と言う命題を中国政府は試行錯誤しながら解決してゆかねばならなくなる。
台湾のロックレコードと契約していた黑豹、唐朝は、1994年には日本のJVCビクターと契約を交わすこととなるが、このような動きはロックビジネスが多額の外貨を稼ぐビジネスであることを中国政府に見せつけた。
1992年頃から再び改革開放が推し進められ、社会主義市場経済が既に確立している。中国政府もその「鼠を捕る猫」をいつまでも敵対視するわけにはいかなくなった。時にはロックをしめつけ、ある時は緩め、そその揺り返しの中から中国政府とロックとの関係は落ち着くところに落ち着いて行ったのである。

黑豹(ヘイバオ)
中国政府が初めてロックと手を結んだのは、1993年4月24、25日に北京首都体育館で開かれた黑豹のコンサートであると私は考えている。老齢年金にその売り上げを寄付すると言う条件で開かれたこのコンサートでは、それまでコンサートで立ち上がったら逮捕されると言う状況だったのが一変し、1万人を超す観客が総立ちで彼らの曲を合唱した。
ロックに対する規制が緩和されて来たかのような時代ではあったが、それでも中国ロックの創始者である崔健に対する政府の締め付けは相変わらず厳しかった。演奏許可を出さない、Partyライブの中止命令から始まって、このようなエピソードまである。
1994年にオープンしたハードロックカフェ北京のこけら落としイベントで、B.B.キングが北京にやって来てライブを行ったが、そのライブを見に来た崔健を当局は入店させなかった。ここまで来ると「締め付け」ではなく、もう「イジメ」の域である。彼の存在は「音楽」を超えて「信仰」の域まで達しており、また頑なにその独自の姿勢を崩さない彼の態度に中国政府は常に面白くないものを感じていたのではないかと思われる。
それに反して他のロックバンド達は崔健が進むいばらの道を横目で見ながら商業主義に突っ走って行った。ロックと言う言葉は使わない、自分たちは政治とは関係ない、などそれこそ「上有政策下有对策(シャンヨウジョンツァーシャーヨウドゥイツァー・上に政策あれば下に対策あり)」のあらゆる対策を使いながら彼らはロックをビジネスにしてゆき、その商業的な成功を見てロックを始める次の世代の若者たち、そしてその若者たちを商売に使おうとするレコード会社など、ここにロックビジネスの根本的な条件は整った。
中国ロックの衰退

右端が张炬(ジャンジュィー)
1995年5月11日、中国ロック界を揺り動かす重大な事件が起こった。唐朝のベーシストである张炬(ジャンジュィー)がバイク事故で死亡したのである。
彼が運転していたバイクと事故を起こしたトラックの運転手の名前を政府は最後まで公開しなかったと言う。全国のロックファンがその運転手に危害を加えるのを防ぐためだと言う話であるが、テレビなどのメディアで露出することが出来ないロックと言うムーブメントの影響がここまで大きくなっていると言うエピソードのひとつである。
この事件をきっかけとしてコアなロックファンの中国ロック離れが始まった。
既に1994年に設立された青山音乐工作室(チンシャンインユエゴンズオシー)と言う会社に代表されるように、いろんなレコード会社は質の悪いロックのオムニバスアルバムを量産していたし、黑豹は初代ボーカリストの窦唯(ドウウェイ)が脱退し、新ボーカリストを迎えて過去のヒット曲を歌って全国を営業に廻ると言う状態。そして人気実力共にトップクラスであった唐朝が、ムードメーカーとしてバンドの結束を固めていた张炬の死によってバラバラになってしまうに至っては、コアなロックファンにとっては何を持って「ロック」と考えればいいのかがわからなくなってしまうのも無理はない。
これはアメリカのロックがウッドストックをピークとして商業化しながら確実にその潜在的パワーを失っていったのとも似ている。日本で言うと、安保闘争の学生運動をピークに衰退していったフォークブームと似ている。
中国ロックは天安門事件をピークとして、その歴史を10年足らずで駆け抜けてしまったのである。
中国ロックの細分化と更なる商業化
この頃には中国は既に「閉ざされた国」ではなくなっている。インターネットと言う発明が、中国人民に世界中の最新の情報を提供するからである。中国の若者は常に世界で一番流行っている一番新しい音楽を聴き、まるでオールドファッションの服を脱ぎ棄てて新しい服を着るように、パンク、グランジ、デジタルミュージック等さまざまなジャンルのバンドを結成するようになる。それまでハードロック一辺倒だった中国ロックが「世界の流行」と同じようにジャンルが細分化されて来たのである。

清醒乐队(チンシンユエドゥイ)
「ロック魂」ではなく「ファッション」を前面に押し出したバンドも現れて来て、その中でも清醒乐队(チンシンユエドゥイ)はそれまでなかったブリティッシュスタイルのロックとファッション性を前面に押し出し、商業的にも成功した。
彼らは自らデザイン会社やレコード会社を設立し、新しいバンドの育成やレコード発売を積極的に行ってゆくが、そのこと自体はアンダーグランドのロックの底上げに大きく貢献してゆくことなのではあるが、猫も杓子もデビューできる風潮はロックの「質の低下」につながり、その後のロックシーンの低迷を招く大きな要因ともなる。
「零点(リンディエン)」の商業的な大成功

零点(リンディエン)
黑豹、唐朝などの大成功を見て内モンゴル自治区から北京に出て来た零点のメンバーは、流行歌手のバックバンドや酒場での演奏活動で生活費を稼ぎながら創作活動を開始する。折しも若いロックバンドの青田刈りが始まっていた頃なので、最悪の条件ながら彼らがレコードを発売することはそう難しいことではなかった。
1995年にはデビューアルバム「别误会(ビエウーホエ)」、そして1997年に発売したセカンドアルバム「永恒的起点(ヨンハンダチーディエン)」爆発的なセールスを記録した。
シングルと言う概念がない中国において爆発的なセールスと言うのはアルバムセールスと言うことなのではあるが、日本のオリコンのようにそれを数字にしてチャートにすることは難しい。海賊版だらけのこの国で正規版のセールスをチャートにしたとしたら、海賊版業者も手を出さないレコードの方がチャートの上位に上がってしまう可能性もあるし、海賊版を含めた総合セールスなど正式な数字を調べることなど不可能である。
中国におけるヒットチャートと言うのは、そのほとんどがラジオでのオンエアーのチャートである。彼らのセカンドアルバムのリーディングソングである「爱不爱我(アイプアイウォー)」と言う曲は50のラジオ曲のトップ1に輝き、全ての国民に愛される「歌謡曲」として大ヒットしたのである。
彼らは積極的にテレビの歌番組やバラエティー番組に出演した。そのことによって彼らの知名度はますます上がってゆき、地方の歌謡イベントなどでの彼らの出演ギャランティーは一流歌手と同じランクになっていった。
「ロックで金を稼ぐ」と言うことはここ中国では非常に難しい。その演奏の場がほとんどないからである。しかしこの国では「歌手」が一番金を稼ぐ。よくてカラオケ、悪くて口パク、つまりCDに合わせて5分間観客に笑って手を振っているだけで日本円で数百万の金がその歌手の懐に落ちるのである。多い歌手でそんなイベント出演を年間100本以上こなす。
黑豹に憧れて北京に上京して来た零点は、黑豹のロックの上っ面だけを世襲し、その音楽と活動を徹底的にポップにしてゆき、結果そこまでやり切れなかった黑豹をメインストリームから追放することとなった。中国ロックの終焉である。
イベントの主催者としては、バンドの人数が5人だからと言って出演ギャランティーを5倍支払ったりはしない。バンドは歌手と同じギャラをメンバーの数で割るので収入は歌手の5分の1と言うことになるが、それでも彼らはそんな営業ライブを年間100本以上こなし、巨万の富を得た。
営業ライブと言ってもそのほとんど、いや全てはオムニバスの歌謡イベントに出演すると言うもので、バンドであろうが全て当てぶりか口パクである。つまりボーカリスト以外はそのバンド生活の中で生演奏する機会はないのである。
これを「ロック」と呼べるかどうか議論の余地はないと思う。零点はロック界、そしてロックを心から愛するリスナー達に大いに軽蔑され、その代償として巨万の富を築いた。
中国ロックの空洞化
どんな高尚な人間であろうと霞を食って生きてゆくことが出来ないのと同じように、音楽だロックだと声高に叫んだとしても、その産物が商業的に売れないと生活も出来なければ、そもそもその作品を発売して人の耳に届けることさえままならない。

花儿(ホアー)
ある者は零点に続けとばかり、音楽性を捨てて売れることに邁進し、ある者はそれについてゆけずにアンダーグランドに埋没した。ここに中国ロック界は大きな空洞化現象が定着し、その空洞は現在でも埋められていない。若くて元気のよいポジティブパンクバンドとしてデビューした花儿(ホアー)は、今ではMTVやメディアでも楽器は弾かず、メンバー全員が踊りを踊って歌うアイドルバンドに成り下がっている。
この空洞化が続く大きな原因は中国の音楽市場にある。
中国でレコードを買う大部分の人間はその人口の80%を占めると言われている「農民」である。当然ながら新しいリズムやアレンジを聞きわける耳を持っていない。彼らにとって大事なことは、「1、歌がうまくて」、「2、歌詞が泣けて」、「3、テレビにもよく出てみんなが知る有名歌手であること」だけである。ロックを支持する層と言うのはその大部分が学生を中心とした知識階級の若者なのであるから当然ながらその市場は非常に小さいと言える。
その昔、崔健や黑豹を聞いて拳を振り上げた人民達は、今では自分が人に続いてもっと金持ちになることに忙しく、今ではそんなメッセージには耳も傾けない。当時は革命の歌か甘ったるいラブバラードか、もしくは新しく登場したロックと言う変わった音楽かしかなかった音楽市場も、今となってはあらゆる音楽が氾濫し、その大部分の人民はその溢れる情報の波に乗り切れず、結局は肌になじむ古いタイプの音楽を好んで聴いている。
例えばレコードの値段が世界一高い日本などでは、アンダーグランドと言ってもそこにれっきとした市場が存在する。それがそんなに大きなマーケットではなくても、それほど自分を曲げなくてもある程度のビジネスとしてその音楽をやり続けることが出来る。ところがここ中国ではそのマーケットがあまりにも小さいのである。金を稼ぐためには歌謡曲に徹するしかなく、純粋なロックをつらぬくには相当な貧乏生活を覚悟するしかない。一時の「ロックの青田刈り現象」はここに来てロック界に大きなダメージを与えているのである。質の悪い商品を量産してしまえば、その商品はその後決して売れることはないものとなってしまうからである。
中国ロックの未来
中国ロックが衰退してから既に10数年の歳月が流れ、その状況に大きな変化は現れていない。一部の熱狂的なロックファンが話題にする誰も知らないアンダーグランドバンドが生まれて消えてゆき、ロックを捨てて金儲けに走る数少ない成功したバンドがいくつか現れては消えてゆく。それだけである。私自身あまり中国ロックに大きな希望的観測を持ち合わせたりはしないが、もし大きな変化があるとしたら、それはこの大きな経済発展の中で生まれた新世代の金持ち達によるものではないかと考えている。
カースト制度にも似たこの中国の貧富の差は既に大きな社会問題になって人民の上に大きくのしかかっている。
貧乏人は永遠に貧乏、儲けるのは金持ちばかり。しかしその金持ち達にも大きな悩みがある。貧乏から抜け出すために死ぬ思いでそのカースト制度をようやくの思いで一段上ってみれば、そこには今の自分よりももっと金持ちばかりがいて、結局は自分は一番貧乏なんだと思い知らされる。上を見れば限りなく金持ちがいて、下を見ればもう二度と落ちたくない貧乏な世界が広がっている。人生とは一体なんなんだろう・・・
そんなある種の金持ち達の中に、昔ロックを聞いて育った人間も少なくない。今政治や経済を動かしている若い世代はまさにその世代なのである。終わってしまった黑豹たちを何とかするのも無理だし、政治的に問題が多いので崔健を再びメインストリームに引っ張り上げることは到底無理だとしても、自分が再び心を動かされる若いバンドにその富の一部を投げ出してあげることは簡単なことである。
このような人たちが自分たちの小遣い程度を投資してデビュー出来た若いバンドも珍しくない。青田刈りによる質の低下を払拭する高レベルの制作も可能である。有名歌手のように大きなプロモーションは無理でも、質のいいものをコンスタントに出してゆくことぐらいは出来る。そして地方にもそんなロックを愛する金持ち達が金にもならないライブハウスを開いたりしている。アンダーグランドなりにロックをやる土壌は整ってきているのだ。
これは決してメインストリームな現象ではない。しかしロックの底上げと言う点では大きな流れだと思う。現在の空洞化を埋めメジャーとアンダーグランドのギャップを埋める役割を果たしてくれる動きだろうと私は思う。
ロックとは何か、それは決して反体制だからロックだと言うのではないと私は述べた。ロックも含め、全ての音楽はその時代を映し出している鏡のようなものだと私は思う。
中国社会が解放され、抑圧された人民達が崔健の音楽を聞いて拳を振り上げた。そして人民はそんな昔を忘れ去って富を得ることに邁進している。しかし誰しもその頭で描いた「幸せ」を享受していない。この社会は永遠に矛盾に満ちていると誰もが感じている。
その全ての人民の気持ちを代弁する若いアーティストが現れて、また人民達が熱く拳を振り上げる時が来るのかどうか、私はここ北京でそれを見届けてゆきたいと思う。
TEXT;ファンキー末吉
協力&参考文献: 中国ロックデータベース http://www.yaogun.com/
著者

ファンキー末吉
ファンキー末吉:東京八王子を拠点に日本と中国を頻繁に行き来する日本一多忙なミュージシャン。爆風スランプのドラマーとしてデビューし「RUNNER」の大ヒットなど大活躍、しかし1997年にその活動を停止。爆風スランプの活動休止後、1999年に二井原実(LOUDNESS)らとともに「X.Y.Z.→A」 を結成。2000年には北京にも拠点を作り、日中を飛び回りながら音楽活動をやっている。2010年、 演劇ユニット・プロペラ犬の演劇公演『アウェーインザライフ』の音楽監督を担当。
著書
大陸ロック漂流記―中国で大成功した男
10日間中国語完全マスタープログラム
出版社: 株式会社ホットライン; A4版 (2010/4/14)
リンク
オフィシャルWeb http://www.funkycorp.jp/funky/
オフィシャルBlog http://www.funkyblog.jp/
X.Y.Z.→A Web http://www.blasty.jp/xyz/
























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