このお墓のコントリビューター:シマあつこ (イラストレーター、漫画家)
★HANOI ROCKS
1980年にフィンランドで結成されたバンドで、その後活動の拠点をストックホルム、ロンドンと移し、ツアーを重ねていきアメリカ進出した矢先にドラマーのラズルが自動車事故死したことによって解散に追い込まれてしまった伝説のバンドです。(01年に新メンバーで再結成)
メンバーはリーダーのアンディ・マッコイ(G)を中心とする、マイケル・モンロー(Vo)、nナスティ・スーサイド (G)、サム・ヤッファ(B)、ラズル (Dr)(前ドラマーはジプ・カジノ)の5人。実際に活動していた期間は短く、それほど名前が知れ渡らなかったにも関わらず、なぜ伝説のバンドとして語り継がれたのかを振り返り、ラズルのお墓参りに行った経緯を紹介したいと思います。
★ラズルがHANOI ROCKSに加わった経緯 ここでフィンランド人の中で唯一のイギリス人、ラズルについて少し説明をしておきたいと思います。
ラズル(Nicholas Charles Dingley)は、1960年12月2日イギリスのワイト島に生まれました。14歳からドラムを始め、HANOI ROCKSに参加する前はインディーバンド、THIN,RED LINES,THE DARKに加入していたようです。因みにラズルというニックネームはイギリスのアダルト雑誌から取ったそう。
82年、ストックホルムからロンドンに拠点を移したHANOI ROCKSのライヴを見て一目惚れしたラズルは、自分がいかに素晴らしいドラマーかをメンバーにアピールしたとか。(アンディ曰く、「大風呂敷野郎だったが実際叩かせてみたら上手かった」)当時、前ドラマーのジプ・カジノがツアーなどで精神的に疲れ切っていたということもあり、結果的にラズルが追い出したような形でドラマーのポジションに収まりました。
★HANOI ROCKSとの出会い それは1982年、とある音楽雑誌のレコードレビューを依頼されたのがきっかけでした。ちょうど日本でも紹介され始めた頃で、当時はよくMOTLEY CRUEと比較されることが多かったように思います。そのルックスの派手さから音を聴くまでは“見かけ倒し”という先入観を持ってしまったのですが、そのサウンドは意外にもストレートなロックだったのでどんなライヴをするのだろうと興味を持ちました。
★初来日のライヴに魅せられて 最初に来日したのが1983年。雑誌で紹介されて間もなくだったので、もう来日するの!?というのが正直な気持ちでした。実際直前でドラマーの交代劇もあったわけですから。案の定、観に来た人たちも予想以上に少なく、会場内も何となく不安な雰囲気が…。ところが一旦ライヴが始まってしまうと、そんな不安は吹き飛んでしまいました。彼らにとって観客が少ないということなど全く関係なかったのです。多少荒削りなところもあったのですがそれは若さ故、全身全霊でのパフォーマンスに見事にKOされてしまったのでした!実はこのときメンバー全員たちの悪い風邪(インフルエンザ?)にかかっていて、注射を打ってライヴに臨んでいたということを後で聞いて信じられませんでした。そんなことを微塵も感じさせない勢いがあったのです。またオフではステージでの印象と180度違い、物静かなマイケルも意外でした。
★再び来日 初来でのライヴがいかにロックファンの心を捕らえたかは、2度目の来日(1984年)での会場いっぱいのファンの歓声で歴然としていました。前年は物珍しさで観に来ていた人も少なからずいたようですが、今回は確実HANOI ROCKS のライヴ観たさに来ている人が多かったように感じました。この一年で確実に成長した彼らは、楽曲もバラエティーに富んだものを披露してくれました。
来日中ちょっとしたエピソードがあって、次にリリース予定だったアルバム、「Two Steps From The Move」の中のブックレット用のマンガを依頼されることになったのです。初来から彼らのインタビューを担当していた友人ら数人に、「HANOI ROCKSにマンガ見せに行ってあげなよ〜。きっと喜ぶよ!」と、半ば強制的に連行(?)されてホテルのロビーにいたラズルに単行本を渡したのでした。その日の夜、ライヴを観て興奮冷めやらぬ私の元に一本の電話が----出版社を通してマンガを描いてほしいというマネージャー氏からの依頼でした。もう体中の血が逆流するほど驚きました!そんなことがありなんだ!!そそのかした当の友人は隣で「ほ〜らね」と笑うばかり。ツアー中忙しいスケジュールの合間を縫って、私たちはマンガの内容を打ち合わせし、アルバムの発売に合わせて原稿を送ることになりました。
数日後にレコード会社の担当者に聞いた話なのですが、マンガを持って行ったあの日、ラズルはそれをメンバーに見せ、マネージャー氏が慌ててロビーに降りて行ったけれど、もういなかったのでライヴ後に連絡したということだったらしいです。そしてマンガを使うことを決定したのは、何とアンディだったと聞いて二度ビックリ!彼は単行本のマンガの中に登場する他のミュージシャンのマネをしておどけていたそうですが、そんな一面があったとは!想像しただけで笑えました。現に「HANOI ROCKS以外のミュージシャンを登場させてくれ」というリクエスト付きでした(笑)。
★Tragedy その年の11月、アルバム『Two Steps From The Move』をひっさげてHANOI ROCKSは念願のアメリカ進出を果たしました。そして12月9日、L.A.のトミー・リーの家でパーティーを楽しんでいるとき、ヴィンス・ニールの運転で一緒にビールを買い行ったラズルは自動車事故に遭い帰らぬ人となってしまったのでした。享年24歳でした…。誰もがツアーの成功を信じて疑わなかったはずです。正に寝耳に水の訃報でした。残されたメンバーの気持ちは想像を絶するにあり余るものだったでしょう。奇しくも彼らの曲「Dead By Christmas」の通りになってしまうとは…。歯車の一つを失ったバンドは、新メンバー、テリー・チャムズ(ex-CLASH)をドラマーに迎えて何とか活動するも、徐々に解散の道へと向かって行ったのでした…。
★ワイト島へ ラズルが亡くなって数ヶ月経ってからも、編集部や私の元にファンの人たちからの手紙が届き続けました。そんなあるとき、ラズルのお墓参りの取材をしようという話が持ち上がりました。当時ロンドン在住だったライターを中心に、たまたま旅行でロンドンを訪れる予定だった私とマンガ家の水野レイちゃんが、向こうで合流して取材のお手伝いをすることになったのです。そして事故から半年後の6月、ラズルのお墓がどこにあるのかも分からない状態で日本を出発しました。
ロンドンに着いてまず初めに、HANOI ROCKSのマネージャーであるリチャード・ビショップ氏にお墓の場所を聞くため、オフィスを訪ねました。建物の5、6階(エレベーターなし)の階段を上り切ったところにあるオフィスは、どこか落ち着きのない雰囲気で、壁に掛けてあった6月から白紙のスケジュールがバンドの危機を物語っていました。そんな状態でしたがビショップ氏は快く私たちを招き入れてくれ、アメリカで撮った映像を見たりしてすっかりくつろいでいました。そこへ階下からドッドッドッ…という音がして、バン!と勢いよくドアが開いたかと思うとマイケルとアンディが入って来たのです。何でもリハーサルの後に寄ったらしいのですが、2人ともステージ衣装みたいに派手な服を着ていました(笑)。「ワイト島に行くのか〜、あそこは何にもないところだよ」とマイケルが言っていたその場所は、ロンドンから南へ電車で2時間、フェリーを乗り継いでさらに電車に乗って、というような閑静な片田舎でした。結局お墓の場所は「ラズルの両親の電話番号が分からないから、直接行って聞いてみて」と、住所を教えられただけだったので、タクシーの運転手に見せて実家まで行ってもらうことになりました。
緑の中のひっそりとした一軒の家に着き、日本から来た趣旨を説明すると、両親は私たちを居間へ通してくれました。1人息子を失くしてたった半年しか経っていない2人からは、とても重たく物寂しい空気が伝わってきました。最初のうちはラズルのことを話す度に涙ぐんでいましたが、日本のファンから届いた手紙を見せた途端、ぱっと表情が変わったのが印象的でした。それからは小さい頃の話をしてくれたり(大きくて元気な赤ちゃんだったそう)、家の中をひと部屋ごとに案内してくれたりしました。しかしそんな様子を聞けば聞くほど、私たちはどんどん胸を締め付けられていったのでした。今まではどこか海の向こうで起こったことと捉えていた部分が少なからずあったのですが、今こうして目の前で見覚えのある衣装やアクセサリーがそのまま置かれていたりするのを見るにつけ、その主だけがいない事実が理不尽に思えて仕方がありませんでした…。
しばらくして真っ赤なカーディガンと口紅を着けて出てきたお母さんは、近くにあるお墓に案内してあげましょう、と申し出てくれました。「掃除機をかけるから」と家に残ったお父さんの心情を思い、私たちは静かで小さな教会の裏にあるお墓へと向かいました。ラズルのお墓は芝生にはめ込まれた小さな石で、そこには“IN LOVING MEMORY OF NICHOLAS CHARLES DINGLEY”という文字が刻まれていました。それは、本当に死んで小さくなってしまったんだなぁ…いうことを確認する残酷な証拠のようなものでした。やがてお母さんがお墓の周りの草をむしり始めましたが、その姿が何とも悲しくて鼻をすすりながら地面を這いつくばってお手伝いしました。
家に戻ると今度はお父さんが、ラズルがよくドライブしたコースを走ってくれたり、お葬式をした教会に連れて行ってくれました。車のダッシュボードにはHANOI ROCKSのカセットテープが…何気ない両親の愛情を垣間見るたびに、やるせない気持ちでいっぱいになりました。そんな中でも「彼は実家に帰る度にツアーに行った国々や出来事を、瞳を輝かせて話し、とても幸せそうだった」と、両親が語っていたのがせめてもの救いであり、そうであってほしいと願わずにはいられませんでした。
その後、お母さんが作ってくれたツナサンドはとても美味しかったです。帰りにはお父さんが船の時間を調べて港まで送ってくれたりして、何だか遠くの親戚を訪ねたようにもてなしてくれました。帰り道、私たちの胸の中はズッシリと鉛のように重たいものが詰まったままで、ロンドンまでの2時間一言も口を利くことが出来ませんでした。
ロンドンに帰るとHANOI ROCKSの解散が発表されていました。ラズルがこの世を去ってちょうど半年経った6月9日のことでした。
★後日談 ラズルのお墓や両親のことが本になってしばらくした頃、ファンの人たちからまた手紙が届き始めました。記事の中の「両親はラズルがHANOI ROCKSに入ってからの記事や写真を持っていない」というのを見て、他のバンドのファンまでもが切り抜きを入れて送ってくれたのです。その中で、今でも忘れられない手紙があります。それは分厚いアルバムにデビューから解散までの記事と写真がていねいにファイルされたもので、編集部宛に一通、両親宛に一通入っていました。そこには「これは私が今まで集めたHANOI ROCKSに関するものです。私は目を閉じていても一つ一つを思い浮かべることが出来るので、心の中にしまっておきます。HANOI ROCKSのことは一生忘れません。これは両親が持っているべきものなので、どうか送ってください」と書かれていました。これにはみんな涙、涙でした。
★そして今 HANOI ROCKS解散後、アクセル・ローズやセバスチャン・バックを代表とする沢山のミュージシャンたちの口からリスペクトするバンドとしてHANOI ROCKSの名前が挙がるようになりました。それらの若いバンドのファンがルーツをたどって聴いていき、バンドのドラマチックな歴史からいつしか“伝説のロックバンド”と呼ばれるようになったのです。
そして2001年、そんなファンの熱い思いに後押しされるかのように、生まれ変わった新生HANOI ROCKSが活動を始めました。決して懐メロ的ではない現在進行形のバンドとして、新しいファンを増やしている彼らの魅力とは、ロックに対して変わらないピュアな姿勢だと確信しています。
Text By シマあつこ(イラストレーター、漫画家)

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